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声楽声楽

 1984  48歳  第1回「歌曲の夕べ」 日本工業倶楽部(日本) 麻生花児 テナーリサイタル
イタリアの情熱  /日本の哀愁(ノスタルジー)

19世紀の終わりから20世紀前半にかけて、新しい形の情熱的な歌唱曲が数多くイタリアに生まれました。ヨーロッパ全体でも、古典・ロマン主義の音楽が完成されて、そろそろ新しいものが要求されていた時代です。植民地主義等の活動も盛んで、ヨーロッパの国々が近隣のアラブやアフリカにも入り込んで行った時代です。したがって文化の交流も盛んであった訳ですが 、アラブ音楽が既に入っていました。ナポリターナと呼ばれるイタリアに生まれた歌唱曲は、フランスのドビュッシーやラベルと違って、血の濃さを感じさせる・・ つまり一種の哀感をともなう情熱的なものです。日本でも戦前からよく唱われていました。短い時間ではありましたが同盟国であったことも、その理由のひとつかも知れません。
オーソレ・ミオ(私の太陽)などは洋の東西を問わず、一番有名な歌のひとつではないでしょうか。私が歌っているナポリターナの数々は、おそらく曲名は知らなくても、誰しもが聞いたことのある歌だと思います。
イタリアの曲が”情熱的”であるなら、日本の歌は”ノスタルジック”・・・哀愁的とでも言いましょうか・・・。感傷的ともちょっと違うのです。もちろんこのCDにある日本の歌は、日本の歌と言っても、”さくら さくら”や”中国の子守歌”などを除いては、始めから西洋の歌です。既に明治の中期には、日本人は西洋の五線譜に書かれた音楽をものにしていましたが、明治前期から大正にかけて盛んに創作され、独自の立場を築きあげたのです。戦後の日本人が作曲した前衛的な作品に関しては、日本人の作品に限らず、世界的にその評価が定まっておりませんので例外といたしますが・・・。日本の歌は世界の歌に引けを取るものではないと思います。日本人は不思議な民族です。日本の歌は、確かに日本の心なのですが、西洋の音楽をそのままいただいているものです。つまり、”新しいもの”が確かに加わっているのです。科学技術の面においては、説明するまでもありませんが、西洋のものを全部いただいてしまいました。日本人はごく自然に、”からたちの花が咲いたよ””夕やけ小やけの赤とんぼ”と唱っていますが、これは必ずしも全部日本のものでは無いのです。こういうことは、まず他の民族には例の無いことです。もしかしたら”禅”のおかげなのではないでしょうか。「無に帰して、よきものを取れ、生きるものを造れ」とか・・・。以上のような考えもあって、あえて”イタリアの情熱”と”日本の哀愁”を合わせてみました。私が歌う限りでは・・・?日本の歌は 、世界の人々のハートをつかんで離しません。
                 歌手:麻生花児
    2000年:イタリアの情熱/日本の哀愁CD制作
 1988  52歳 『オペラの夕べ』   銀座・十字屋ホール(日本)
 1989  53歳 第6回「歌曲の夕べ」お茶ノ水スクエア ヴォーリズホール(日本)
 1993  56歳 『歌曲の夕べ 』 花巻なはんプラザ(花巻市)
 1993  57歳  第10回「歌曲の夕べ」  津田ホール(東京)
 1994  57歳 平安遷都1200年記念清水寺コンサート(京都)
 1995  58歳 聖アントニオ生誕800年記念音楽祭参加(イタリア・パドヴァ)
 2001  64歳 オペラ『ドン・ジョバンニ』公演企画(アメリカ・ボストン)
 2004  67歳 第20回「歌曲の夕べ」オペラシシティ リサイタルホール(東京)
 2005  68歳 日本ベーゼンドルファー本社サロン コンサート(磐田市)
第21回「歌曲の夕べ」オペラシティ リサイタルホール(東京)
聖アントニオ生誕800年記念音楽祭(イタリア)1995年